令和2年度 第13回国際教育センターフォーラム

異文化理解の方法としてのワークショップの可能性を考える

 文化を跨いで学ぶ子ども達がいる環境では,特定の文化の枠組みの中で教育を進めるのではなく,自分たちを取り巻く文化そのものを柔軟に見直し,新しい教育や学びのあり方を探求していくことが必要になります。別の言い方をすれば,教える側も異文化の環境の中で学び,変わっていくことが求められます。このように自分自身のあり方を捉え直しつつ,他者と関わるための方法として「ワークショップ」が近年注目されています。今回のフォーラムでは,様々な現場を対象としてワークショップの実践・研究を進めている方々と,異文化間対話の研究・実践を進めている方々をゲストにお迎えして,異文化理解とワークショップの接点と可能性を探りたいと思います。海外・帰国児童生徒教育や外国人児童生徒教育など,文化を跨いで学ぶ子ども達に関わる実践者,研究者,その他多くの方のご参加をお待ちしています。

日時: 2021年2月6日(土)13:30~17:00

開催方法: Zoom

定員: 70

申し込み締切:定員になりましたので締め切りいたしました

参加費: 無料

申し込み方法:
以下のURLまたはQRコードよりお申込みください。


https://forms.office.com/Pages/ResponsePage.aspx?id=JV8MPrcmfUiS2dHOCM5aW81GeHQD5UlMqueOIpOinVpUNFpWRjhTQzRVSzRNUDVBWkU2SjlLWVZITy4u
 

受付は終了いたしました。

たくさん申込みありがとうございます。

お問合せ先:
東京学芸大学国際教育センター 教務室 受付担当 新貝美恵子
Mail c-event@u-gakugei.ac.jp
Tel 042-329-7717 火、木、金曜9:00~16:00

第13回国際教育センターフォーラムポスター.pdf

<プログラム>

総合司会 見世 千賀子(東京学芸大学国際教育センター・准教授)

13:30~13:35 開会の辞 竹鼻 ゆかり(東京学芸大学国際教育センター・センター長)
13:35~13:50 趣旨説明 榊原 知美(東京学芸大学国際教育センター・准教授)

13:50~14:50 基調講演
 「自分の当たり前に気づかない<教え手>はどうして生まれるのか」
苅宿 俊文(青山学院大学社会情報学部・教授)

― 休憩 ―
15:00~16:55 シンポジウム
話題提供
15:00~15:20 「日中韓『異己』理解共生授業プロジェクトにおける教員の変容」
釜田 聡(上越教育大学大学院学校教育研究科・教授)

15:20~15:40 「日韓中越のお金をめぐる子どもの生活世界:文化差の立ち現れと相互調節」
呉 宣児(共愛学園前橋国際大学・教授)

15:40~16:00 「Life is group workだと学ぶ共同としての教育(について考えるオンラインワークショップ)」
有元 典文(横浜国立大学教育学部・教授)

コメンテーター 高木 光太郎(青山学院大学社会情報学部・教授)

16:55~17:00 閉会の辞 吉谷 武志(東京学芸大学国際教育センター・教授)



【概要】

自分の当たり前に気づかない<教え手>はどうして生まれるのか

青山学院大学社会情報学部 苅宿 俊文

 ワークショップということが一般化した契機は、2001年に出版された岩波新書の中野民夫「ワークショップ」からである。そこではワークショップを「講義など一方的な知識伝達のスタイルではなく、参加者が自ら参加・体験して、共同で何か学びあったり、創り出したりする学びと創造のスタイル」としている。そして20年。学習指導要領では「主体的で対話的な深い学び」というメッセージとともに広く喧伝されているアクティブラーニング=能動的学習には、ワークショップは、その方法論の一つの柱石として多く取り込まれている。

 本講演は、本フォーラムの参加されている方々は既に多くのワークショップを実施されていることを前提に、ワークショップを実践・研究している立場から「ワークショップをワークショップで学ぶ」という授業デザインを体験してもらいたいと考えている。この授業デザインの骨子は、階層的なワークショップを体験しながら、そこに埋め込んである「自分の当たり前に気づかない<教え手>はどうして生まれるのか」を考えるきっかけを見出していくというものである。これは、2009年度から青山学院大学で実施している社会人対象の「ワークショップデザイナー履修証明プログラム」の授業デザインである。

今回は、「リアルタイム型オンライン授業」として取り組むことを好機と捉え、「異文化理解の方法としてのワークショップの可能性」を議論する上での素材として扱ってもらえればと願っている。



日中韓「異己」理解・共生授業プロジェクトにおける教員の変容

上越教育大学大学院専門職学位課程 釜田 聡

 私たちは,2014年当時の国際情勢を憂い,「このようなときだからこそ,東アジア(日中韓)の教育研究者や教師,児童・生徒が対話・交流をする必要がある」という共通理解のもと,日中韓「異己」理解・共生授業プロジェクト(以下,「異己」プロジェクト)を立ち上げました。

国家間の葛藤や国内外において分断状況が顕在化している今,他者の存在を認め,他者との対話の回路を構築することは益々重要になりました。とりわけ,学校教育においては,他者を理解・尊重し,対話の回路を創出する営みは,喫緊の教育課題の一つと考えます。

「異己」プロジェクトでは,他者でなく,「異己」という概念を用いています。それは,「異己」が他者では表現できない意味を包含するからです。「異己」プロジェクトの授業では,児童・生徒が「異己」の存在を認識し,対話を通じて,共生へのアプローチを創出する場を重視しています。

当日のフォーラムでは,主に次の二点について,話題提供いたします。

1 「異己」プロジェクトの概要について

 「異己」プロジェクトの生成過程とこれまでの取り組み(授業の様子),現在まで

 の到達点について報告いたします。

2 教員の変容や力量形成について

 「異己」プロジェクトに参加し,実際に授業実践を行った教員の変容について報告

 いたします。

日韓中越のお金をめぐる子どもの生活世界:文化差の立ち現れと相互調節

共愛学園前橋国際大学 呉 宣児

 私は、2002年からお小遣いプロジェクトに参加し、日本・韓国・中国・ベトナムの研究者たちとその4か国を回りながら、インタビュー調査、観察調査、質問紙調査を通して「お金をめぐる子どもたちの生活世界」を捉えながら議論してきた。それらの研究の最終成果として2016年「子どもとお金:おこづかいの文化発達心理学」(高橋登・山本登志哉編著,東大出版会)が出版され、その英語翻訳書として2020年「Children and Money: Cultural Developmental Psychology of Pocket Money (Perspectives on Human Development) が Information Age社から出版された。

本報告会では、これらの研究から特に「お金をめぐる日韓中越の友達関係」に焦点を当てて発表を行う。結論からいうと、4か国の子どもたちの生活の中で「おごりの友達関係」と「割り勘の友達関係」の様子があることが分かった。必要に応じて適切におごりができることが一つのスキルとしてとらえられている社会もあり、割り勘こそ身につけるべき大原則としてとらえられる社会もあった。しかし、そこで重要なことは、どちらの社会も「友達と良い関係を維持するため」という目的は同じであることであった。

日本人研究者中心の視点・感覚に対して、韓国的な生活実践者である私の違和感は強烈であった。使われる用語・説明に用いられる言葉一つ一つに納得がいかなかった。日韓中越共同研究者たちは、生活実践者としても研究者としても、互いに異文化の者であった。インタビュー場面の質問の仕方が変わり、統計結果を示す因子名の変化が起こり、研究者同士のおごり割り割り勘の行動変化まで、終わりなき相互理解と相互調節が必要であった。そして、つねに「いまここ」での異文化の者同士の共生のための意識変換が必要であることも分かってきた。

Life is group workだと学ぶ共同としての教育(について考えるオンラインワークショップ)

横浜国立大学教育学部 有元典文

 教育の目標は「人格の完成」である。生きるとは変わることだ。変化という人生を生きる助力が教育だと思う。人生とは、具体的には人々の共同作業のことである。「Life is group work=人生は共同作業」であり、教育は、学習を通して共同作業を学ぶ場になっているとみることができる。二人以上で一緒に行うから共同作業であり、教育自体もそのはずだ。つまり教育は、学習者の発達を学習者と「共に支える」ことであり、学習者が未来の自分に成るための共同作業だと言える。教育、啓蒙、指導、支援、援助、治療と言った働きかけは、相手がいないと成立しない。子供達(学習者)がいるから、私たちは教育をさせてもらっている。「教育とは教育が適切に機能するための教え手と学び手による共同作業」と定義できるだろう。つまりとても対話的なことだ。ともに変わる相手がいなければ教育はモノローグに過ぎない。教育を拍手の音声(おんじょう)に例えても良い。主客未分・一座建立という性質を持ったグループワークと考えてもいい。「犬に引っ張られた!」と思う時、犬から見れば、私が犬を引っ張っている。両者の主語がアイではなくウィーとして、きれいに、水の流れのように歩いていればいい。でもそれには(1)「犬に引っ張られた!」と思わない練習(「社会的カメラワーク」を動かす)と(2)私と犬が引っ張り合わない共同の練習が必要だ。共同の練習は学校にいる間には終わりっこない時間のかかる練習だ。人生が練習であって同時に本番でもある。相手に任せる、共につくる、ことの学習者体験を通して、教育という共同について考える共同の機会を、当日皆さんと一緒につくりたい。お楽しみに!